いっせーのせ?指スマ?あの親指ゲームの起源を探す旅

道具を使わずに遊べるアナログゲームとしてジャンケンなど手指を使うものがいくつかあります。その中でも比較的有名なのが、親指の数を当てるゲーム。

 

誰でも一度は遊んだ事があるんじゃないかと思うんだけど、ゲームの流れは下記の感じです。

①握った両手の拳を親指が上を向くようにして前に出し、参加者は全員の手が見やすいように丸く並びます。

②1人が「いっせーの」などの掛け声と共に数字を宣言します。

③その宣言の声と同時に参加者全員が親指を立てるかそのままにして、立っている親指の数と宣言した数字が一致すれば成功です。違えば失敗です。

④成功した場合は宣言した人が片手を引っ込めます。失敗した場合は何もありません。

⑤次の人が数字を宣言をします。

②〜⑤を繰り返して、2回成功した人が勝利というルール。

遊んだことありますよね?こうして文字にすると堅苦しいな。でもこんな流れのゲームです。

 

このゲームの名前は?

この遊びを何て呼んでましたか?ルールは同じなのに呼び方が地方・地域によって全然違うんです。雑学系のニュースサイトでは定番のテーマのようで、検索するとゲーム名のアンケート結果の記事がいくつかヒットします。厳密にはゲーム名じゃなくて、親指を立てる時の掛け声の調査のようですけどね。

各サイトを見比べると、関東では「いっせーのせ」関西では「いっせーので」が多いらしいです。他には「チッチーノ」「チッチッチッバリチッチ」「いっせっせ」などもメジャーな呼び方なんだとか。

あとは、フジテレビのバラエティ番組「SMAP×SMAP」の中で1998年から放送していたこのゲームのコーナー名が「指-スマGrand Prix」だったので全国的にも一般的にも「指スマ」が定着している名称になります。

地域限定となると札幌や新潟の「うー」山梨や静岡の「せっさん」秋田の「たこたこ」福井の「ルンルン」千葉の「チュンチュン」大分の「あらし」愛知の「ビーム」あとは地域不明で「チーバリ」「セロセロ」「じんち」「じのち」「ピコピコ」「ピピノー」「ギンギラギン」「そろばん」などなど。バージョンあり過ぎてキリがないです。どれが正解とか不正解とかありません。ここでは以下、親指ゲームと表記します。

 

どこで生まれたゲーム?

さて、ここからが本題です。

親指ゲームのオリジナルって何なの?って話です。都道府県で呼び方が違うのは分かったけど、一体どこで生まれたゲームなのか?いつから遊ばれてたゲームなんだ??何も知らないので調べてみました!

 

手を使う遊びは世界中に沢山あるんだけど、注目すべきは中国。中国の遊びで数拳(かずけん)というものがあるそうです。2人で対戦するゲームです。

遊び方は、2人が同時に片手の指を任意の数だけ出して、それと同時に2人が出した指の合計数を宣言して数が当たっていたら勝ちというルール。0~10の数を当てるのが目的のゲームなんだけど、同時に指を出して合計数を当てるという意味では親指ゲームに似てますよね。そんな数拳が日本に伝わったのは16世紀。中国から長崎に入ってきたそうです。

数字は中国から入ってきたこともあって0〜10までを「むて」「いっこ」「りゃん」「さん」「すう」「ごう」「りう」「ちぇ」「ぱま」「くわい」「とうらい」と中国語っぽい言い方だったそうですよ。

 

その後、酒の席やお座敷遊びの時に楽しまれ、負けたら酒を飲むという罰ゲーム的な要素が加わって日本中に広まったのが18世紀。長崎からやって来た拳ということで長崎拳と呼ばれたり、本拳、長崎本拳、崎陽拳などの呼び名もあったようです。ちなみに崎陽は長崎の別の呼び方。ここでは以下、長崎拳と表記します。

 

長崎拳の名人もいた!

面白いのが、長崎拳が酒席での遊びとして広まったのとは別に、相撲のように東西に分かれて真剣勝負が行われていたんです。その名も拳相撲です。土俵もあって、行司もいて、番付表もあって。驚きなのは弟子がいた名人も存在したんだってさ。このゲームって運が全てじゃないの?って言いたくなるけど。研究本もあったらしいからブームだったのかも知れませんね。

中でも長崎拳が強かったのは野崎車応さん。

野崎車応さんが亡くなった翌年の1812年、東京の向島に追悼碑が建てられているんです。追悼碑を建立するって長崎拳が相当上手かったんだろうし、メチャクチャ流行ってたって証ですよね。ちなみに追悼碑は東京スカイツリーのすぐ近くの神社に今もあるようですよ。

100年以上に渡って親しまれた長崎拳にも突然の終わりがやってきます。それは1844年(天保15年)のこと。幕府が拳稽古場の差し止めのお触れ書きを出したのです。ってか、長崎拳の稽古場があったのかよ!相撲やってるんだから稽古場があるのは当然だけど、一体どんな稽古をしてたのやら。とにかく稽古する場所がなくなった訳です。当然、本場所(と呼んでいたのか?)も出来なくなったのです。

何があったのかは妄想を膨らませるしかないんだけど、拳稽古場差し止め前年の1843年まで天保の改革が行われてたんですよ。庶民の娯楽などが厳しく制限されて、寄席が潰れたり、歌舞伎の興行場所が限定されたり、江戸花札やカルタが禁止されたのです。って事は、真剣勝負とは言えども遊んでるような長崎拳が規制されたのは自然な流れなのかなぁと。

 

オリジナルは株取引?

さて、ここまでは長崎拳の話。0~10までを当てる遊びですよ。親指ゲームとは別物。一体ナニがあって今の形に落ち着いたのか?

 

長崎拳からは一旦離れて、今度はお座敷や酒席で遊ばれた相場拳というゲームの話。株拳堂島拳と呼ばれてた地域もあるようです。長崎では五と十と呼ばれてたという説も。

ゲーム中の動きが株取引の立会人の動きに似てるからこのネーミングになったそうです。ちなみに堂島は世界初の取引所でもある米の取引所があった大阪の地名。その米取引所は1730年に開設されてるので、それよりも前、江戸時代以前には存在してなかったゲームなのかなぁと推測出来ます。

相場拳は2人で向かい合って、手を軽く握って両手を肩の前に出します。そして「いっせーのせ」などの掛け声と共に数字を宣言します。その声と同時に手を開くか、手をそのまま握ったままにします。両手を握ったままなら0、片手を開けば5、両手を開けば10です。宣言した数字と2人の合計数が合ってれば勝ち。

これはアクションと数字が違うだけで親指ゲームでしょ!親指ゲームは自分が出せる数字は0か1か2の3択。相場拳も0か5か10の3択。全く同じ!2人の合計数を当てるのも一緒!長崎拳は0~10を当てる11択だったのに対し、相場拳は0~4の5択。簡単になったことで3人以上で遊ばれることもあったようです。これが親指ゲームの源流と断言しても間違いじゃないでしょ。

 

ただ、どこで作られたゲームなのか、いつから遊ばれてたのかは全くの謎。長崎拳が禁止になったから代わりに遊ばれるようになったのか、独自に日本で生まれたものなのか。なんで証拠がないんですかねぇ…。

 

結論

ここからは想像になるんだけど、長崎拳よりも単純な相場拳の方がみんなに好まれたのではないかなぁと。

握り拳を肩まで上げるオーバーなアクションじゃなくて、親指を上げるだけのミニマムな動きで遊べる方が遊びやすい!最大の理由は何と言っても、5・10・15・20と5の倍数じゃなく立ってる親指の数を数えるだけだから子供でも分かりやすい!人に何かを伝えるとき、どんどんシンプルな内容に変化しがちですからね。

 

結論としては、親指ゲームの起源は分かりませんでした…。相場拳の発祥もどこなのか全くの謎。相場拳と違って、一回当たったら片手を引っ込めるというよく出来たアレンジも一体誰が思いついたのやら。そもそもゲームの名前も全国で定まってないんだからホント不思議な文化だ。

でもこれだけは覚えておいて下さい。親指を上げる動きは、株取引の立会人の動きが元になっていることを。